ピラミッド

ジェセル王の階段ピラミッド!ザカリア・ゴネイムとピラミッドの謎

ジェセル王の階段ピラミッドは、古代エジプト建築の創造性と革新の高みを象徴する構造物です。紀元前27世紀に建設されたこのピラミッドは、第三王朝のジェセル王の治世下でエジプト初のピラミッド形式としてサッカラに誕生しました。

このピラミッドは、政治的および宗教的な権力のシンボルとしての役割を果たし、古代エジプト社会の宇宙観と神性を具体的に表現しています。また、ジェセル王の階段ピラミッドの設計変更と建築技術の進展は、その後の数千年にわたるピラミッド建設の基礎を築きました。

一方で、ザカリア・ゴネイムの発見とその後の謎に包まれた死は、古代エジプト考古学のドラマを今に伝えるものです。1954年、ザカリア・ゴネイムがジェセル王のピラミッド近くで未完成のピラミッドを発見したことは、エジプト考古学における重要な進展です。

スフィンクスくん
本記事では、「ジェセル王の階段ピラミッド!ザカリア・ゴネイムとピラミッドの謎と古代エジプト第三王朝の日常と革新」について詳しく解説します。

ジェセル王の階段ピラミッド

ジェセル王の階段ピラミッド

ジェセル王の階段ピラミッド 出典:wiki

ジェセル王の階段ピラミッドは、古代エジプトの建築技術と宗教的、政治的象徴の進化を示す顕著な例です。このピラミッドは、紀元前27世紀頃、古代エジプト第三王朝の王であるジェセル王の治世に建設されたもので、エジプトで初めてのピラミッド形式を採用した建築物とされています。

その立地はサッカラの壮大な墓地区域にあります。

ピラミッドの設計は、元々はマスタバとして計画されていたものの、その後の数回にわたる大胆な設計変更によって、現在見られる階段状の構造へと変貌しました。

階段ピラミッドの構造は六段に重なる形状で、この段々が天に向かって高くなることで、王が神々の世界へ昇るための階段としての象徴的意味合いを持つとされています。その全体の高さは約60メートルに達し、基底部は東西に約121メートル、南北に約109メートル広がっています。

この建築には、それまでの墓として一般的だった日乾レンガではなく、石材が用いられた点が特筆されます。石材の使用は、その耐久性と永続性から、王の不朽を象徴する意図があったと考えられます。

また、石材は日光を吸収しやすく、居住用建築には向かない特性がありますが、これが王の永遠の家として選ばれた理由でもあります。

ピラミッドを囲むように配置された高い塀は、その内部空間を外界から完全に隔絶する役割を果たしました。

この囲まれた領域内には、葬祭殿や神殿、セド祭(王位更新祭)を行うための殿堂が整然と配置されており、これらの施設は王の治世と死後の世界における権威を強調するものでした。

ファラオ・デンのセド祭を描いた黒檀のラベル。

ファラオ・デンのセド祭を描いた黒檀のラベル。wiki

スフィンクスくん
このピラミッドと関連施設の配置は、ジェセル王の政治的および宗教的な権威を具体化し、王が生前及び死後もエジプトの神々や人々に対して絶対的な影響力を持ち続けることを保証するためのものでした。
このように、ジェセル王の階段ピラミッドは単なる墓を超えた、権力と信仰の象徴として機能していたのです。
なっちゃん

ザカリア・ゴネイムとピラミッドの謎

セケムケト王のピラミッド。

セケムケト王のピラミッド wiki

ザカリア・ゴネイムと発見したピラミッドにまつわる話は、考古学とミステリーが交錯する興味深い例です。

スフィンクスくん
ゴネイムが発見したとされるピラミッドと彼の不慮の死について解説します。

ザカリア・ゴネイムの発見

ザカリア・ゴネイムはエジプト人考古学者で、1950年代に活動していました。彼の最も注目される功績は、1954年にジェセル王の階段ピラミッド近くで発見したとされる未完成のピラミッドです。

この遺跡は、ジェセル王のものからわずかな距離に位置し、セケムケト王によって建設されたと推定されています。

セケムケトのレリーフ

セケムケトのレリーフ wiki

このピラミッドは、建設途中で何らかの理由で放棄されたと見られ、その状態で砂の中に埋もれていたため、盗掘の被害を免れていました。ピラミッド内部では、石棺が見つかりましたが、中からはミイラやその他の副葬品は発見されていません。

これは、ピラミッドが完全に機能する前に放棄されたことを示唆しています。

ゴネイムの死とその影響

ワーイル・ゴネイム

ワーイル・ゴネイム wiki

ゴネイムがこの発見を報告した後、ゴネイムのキャリアは一躍注目を浴び、エジプト考古学における地位は一時的に確立されました。しかし、ゴネイムの死は謎に包まれています。

数年後、ゴネイムの死体がナイル川で発見され、事故、自殺、または他殺といった様々な説が飛び交いました。一部では、ゴネイムが「ピラミッドの呪い」の犠牲になったとさえ噂されました。

入水自殺についての説は、彼が石棺からミイラが見つからなかったことに失望してのことだったとされていますが、ゴネイムの死の真相については依然として明らかになっていません。

ゴネイムの死は彼の発見と同じくらい謎に包まれており、考古学界において様々な憶測を呼んでいます。

ゴネイムの遺産と考古学への影響

ゴネイムの発見は、セケムケト王のピラミッドが建設中に放棄された理由に関する新たな研究の扉を開きました。

また、ゴネイムの不慮の死は、考古学研究におけるリスクと、場合によってはその研究がもたらす精神的な負担を示す例としても引き合いに出されることがあります。

ゴネイムの話は、考古学のフィールドワークが単なる発掘以上のものであり、時には個人の生涯や遺産に深い影響を及ぼすことがあることを物語っています。

ゴネイムの業績は今日でも多くの考古学者にとって重要な参考点であり続けています。

古代エジプトの第三王朝時代は、政治的、社会的、文化的に多くの革新が見られた重要な時期でした。

古代エジプト第三王朝の日常と革新

古代エジプト第三王朝は、大規模な建築プロジェクトと社会構造の進展が特徴的な時代でした。この時代は、紀元前2680年から前2610年にかけての期間にあたり、エジプト史上初のピラミッドが建設されたことで知られています。

第三王朝の時代は、ネブカー王に始まり、ジェセル王、セケムケト王、カーバー王、そしてフニ王と続きました。特にジェセル王の治世では、サッカラに階段ピラミッドが建設され、エジプト建築史における重要なマイルストーンとなりました。

このピラミッドは、それまでの墓形式であるマスタバを基に、より巨大で永続性のある構造物へと進化したものです。

この時代のエジプトは、メンフィスを首都とし、王権が強固に確立されました。王は神の子として崇拝され、「ペル・アア」(大きな家に住む人)と呼ばれるようになり、これが後のファラオという称号の起源です。

しかし、王もエジプトの伝統的な価値観である「マアト」(真理と秩序)に従い、神官や家臣と協議しながら統治を行っていました。

第三王朝のエジプトでは、官僚制度が整備され、地方官を含むネットワークが形成されました。これにより、アスワンから地中海に至るまで、効率的な徴税システムが確立され、国家の基盤が強化されたのです。

また、王族や貴族たちは競うようにしてサッカラにマスタバを建設し、死後の世界での地位を確保しようとしました。

生活面では、主食として麦が中心で、麦は粉に挽かれてパンにされることが一般的でした。ビールも古代エジプトで広く製造され、社会のあらゆる階層で消費されていました。

スフィンクスくん
ビールは簡易的な方法で製造されており、熱湯でパンをほぐし、自然発酵させることで酒にしていました。また、ワインもこの時代には既に生産されており、主に上エジプトの王族や貴族によって庭園で栽培されていましたが、一般庶民にはほとんど手に入らない貴重なものでした。
このように第三王朝のエジプトは、政治、経済、社会構造、食文化など多岐にわたって革新が進んだ時代であり、古代エジプトの歴史において非常に重要な時期でした。
なっちゃん

まとめ

まとめ

カテゴリ重要事項
ジェセル王の階段ピラミッド古代エジプト第三王朝の王、ジェセル王の治世に建設。
エジプトで初めてのピラミッド形式を採用した建築物。
マスタバから階段ピラミッドへの設計変更により、約60メートルの高さとなる。
サッカラに位置し、石材を使用して耐久性と永続性を象徴。
階段状の構造は王が神々の世界へ昇るための象徴的意味合いを持つ。
ザカリア・ゴネイム1954年にジェセル王の階段ピラミッド近くで未完成のピラミッドを発見。
発見されたピラミッドはセケムケト王によって建設されたと推定。
内部には石棺があったがミイラや副葬品は見つからず、建設途中で放棄された可能性がある。
ゴネイムの死はナイル川での発見と謎に包まれており、「ピラミッドの呪い」の犠牲ではないかとの憶測も。
第三王朝の日常と革新メンフィスを首都とし、官僚制度が整備された。
王は「ペル・アア」(大きな家に住む人)と呼ばれ、神の子として崇拝された。
主食は麦で、ビールは広く製造され社会のあらゆる階層で消費された。
ワインは上エジプトで王族や貴族によって栽培され、非常に貴重な品物とされていた。

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